Restore Shop |
泉の森自転車店 |
Home | Products | Restoration | Collection | Information | Order | Archives | Link | Brog | BBS |
熊野古道遙かなる道
序章
平成18年6月25日(日曜日)
朝、起きると雨が降っていた。家でジッとしていると、ますますストレスが溜まる一方なので、傘を差して歩いて出掛ける事にした。
自分は一体どれぐらい歩けるのだろうか?疲れ果てるまで歩いて到達した場所を次回の出発点にして、ドンドン先に進めばこの足で何処まで行けるだろうか?
ディスカバージャパン、日本再発見の旅を始めた。
佐野王子
泉佐野市には三つの旧街道(熊野街道、孝子越街道、粉河街道)が通っている。その内の一つ熊野街道は、地元では小栗街道の名で呼ばれ親しまれている。子
供の頃から「古くからある道だ。」とは聞いていたが、まさか世界遺産に選ばれるとは思ってもいなかった。
勤労学生の頃、職場までオートバイで通っていた道の脇に、佐野王子跡の碑が建っている事には気付いていたが、それが何の為に建てられた物かは知らなかっ
た。昨年暮れに、市内の歴史を調べた際、初めてそれが熊野九十九王子の一つであると気付いた。
府指定史跡
佐野王子跡
昭和二十二年四月九日指定
熊野街道にあった熊野九十九王子社の一つであって、後鳥羽院熊野御幸記に建仁元年十月七日御参詣のことが記されているほか、たびたび御幸を数えたと思わ
れる由緒ある史蹟である。
ここには石祠を安置して後白河天皇を奉祀する佐野王子神社があったが、明治四十一年春日神社に合祀された。
昭和二十年その後に石碑が建てられた。
昭和五十九年三月
春日神社
大阪府教育委員会
佐野市場の道標
佐野王子跡から、いよいよ熊野街道(遙かなる旅)が始まる。とは云え、幼い頃から慣れ親しんだ道なので、世界遺産に登録された熊野古道を歩いていると云
う実感が湧いて来ない。
佐野王子のある田出の辻から少し歩くと、いきなり国道26号線(第二阪和国道)によって熊野街道は分断されてしまう。
市役所前交差点まで数十メートル戻 り、国道を迂回して佐野高校前の信号を渡ると、その先は車の対向が困難な旧街道の趣を残した細い道へと変わる。
この辺りは幻の壇波羅密寺の門前市場として 栄えた町で、市場町会館の少し先には、市場道標が残っている。
佐野飛行場跡
市場の道標を過ぎ少し歩くと道幅が広くなる。この辺りから先の道幅が広いのには訳がある。第二次世界大戦中、軍の飛行場があり、熊野街道は飛行場を迂回
するルートを取っていた。飛行場跡地が終戦後整理され農地となった。熊野街道が戦後元の位置に戻された際に引き直された区間が道幅が広くなっている。ちな
みに、父の話によると、終戦後日本に引き揚げて来た頃には飛行場の跡が残っており、現在の末広公園に沿った道路の部分が滑走路だったらしい。国土地理院2
万5千分の1地図(樽井)を見ると、関西空港自動車道の泉佐野ICを中心に、広い道路で四角く囲った様な形を浮かび上がらせている。
日根神社御旅所
関西空港自動車道を渡り少し進むと、道幅が狭くなり古い町並みが続く。
旧家の塀の間に古い自転車が放置されているのが見えた。長いフレームに鉄のブレー キロッド、大きな荷台が年代の古さを物語っている。持ち主もここまで古いと捨てるに捨てられないのだろう。菓子折を持って譲渡交渉に来ようかと良からぬ思 いが脳裏を横切る。
私は10歳の時まで、ここから1㎞弱の所にある団地に住んでいた。幼稚園の頃までは、その団地から、この古い町並みが見渡す事が出来た。当時、第二阪和
国道(国道26号線)は工事中で、広く深く掘り起こされた土地に、大きな水溜まりが出来ている光景を思い出す。今では土地開発が進み、国道沿いは自動車
ディーラーや店舗が建ち並び、田んぼだった所は建て売り住宅で埋め尽くされている。熊野街道沿いのこの古い町並みだけが、当時の姿をそのままに残してい
る。
古い町並みを進むと道は突き当たり左に折れる。その左の角に「日根神社御旅所」がある。毎年5月5日に日根神社の春の祭礼で御輿とまくら幟がここを渡御
する。
蟻通神社
日根神社御旅所の前を通って、ガソリンスタンドの在る交差点から、一旦、熊野街道を逸れる。JR長滝駅に向かう道を少し歩くと、左手に蟻通神社の参道が
姿を現す。
ここ蟻通神社は、大国主命が祭神で、歌人の紀貫之が紀州から京都へ帰る途中、神社の側で激しい風雨に出会い、乗っていた馬が倒れたので、歌を詠んでお祈
りすると、たちまち馬が生き返った話しが、『紀貫之家集』で紹介されている。現在の蟻通神社は第二次世界大戦中に旧陸軍明野飛行学校佐野分校設立によって
移転された物で、元は空港連絡道長滝交差点から100m程の所に在ったらしい。境内には紀貫之が落馬した際に冠を落としたとされる池が復元されている。
また、清少納言の枕草子の中で、孝行息子が老父の知恵を借りて難問を解き、国難を救ったと云う、「蟻通明神説話」でも有名である。
船岡山
蟻通神社を後にして熊野街道に戻り、左右に田園風景が広がる辺りで、右手に船岡山が遠望出来る。この船岡山は、神功皇后が朝鮮半島の新羅国と戦い、苦戦
しながらも日根神社の神の助けを得て勝利を収め帰国する途中に、岡本浦に船を休め休息を取った事が伝承として伝えられている。
船岡山と日根神社との結びつきは古くから有った様で、船岡山が4月2日に行われる日根神社の御輿渡御の御旅所の一つでもあった。最近では5月5日のこど
もの日に祭礼が行われている。
この祭りは、「枕祭り」と呼ばれ、御輿渡御に「枕幟」のお練りが伴う。これらは、神功皇后が船岡山に帰着した際、付近の農民が兵糧米を俵にして奉納した
のが始まりとされている。岡本までのお練りは昭和33年まで続けられていたそうである。
塙団右衛門の五輪塔
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙団右衛門直之の五輪塔である。団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明
に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛と号した。
大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣が起こると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍
と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開された
が、大坂方が敗れ、団右衛門はこの地で討死にした。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇、亀田大隅あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士、小笠原作右衛門の孫が奉納した。
250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し、周囲を整え当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。
淡輪六郎兵衛の宝篋印塔
慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣、徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔である。 淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。
六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。
これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山藩主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。
その後も当地の人たちにより守られてきた。
奧家住宅
重要文化財 昭和四十四年六月二十日 指定
奧家は南北朝時代から和泉国の有力な国人で、江戸時代は樫井の庄屋を代々勤めた。
建築年代は慶長、元和のころ(十七世紀はじめ)と推定される。
建築当初はダイドコが一間も土間部分に突き出す「食い違い」の四室とさらに奧に二室を有する大間取りで、この種の型としては泉南地方ではもっとも古くて大
きい建物である。柱、差鴨居、梁は太くて大きく野材の用い方も古式である。
後に、東側に座敷四室と玄関をつけ、土間からは裏へ対屋を出してカマヤとし、桁行十三間半、奥行は土間部分で七間余りもある大規模な民家である。
国指定は、主屋、長屋門、土蔵、土塀で、昭和四十五、六年に半解体修理をおこなった。
一九九三年八月
泉佐野教育委員会
南中樫井町
樫井には古い町並みが残されており、大坂夏の陣で討ち死にした塙団右衛門直之と淡輪六郎兵衛重政の墓碑が、それぞれ熊野街道沿いに建てられいる。
塙団右衛門直之の墓碑は南中樫井町の北東端に建てられ、墓の範囲約23㎡、1.8m四方の石の柵を設け、中に高さ約2.3mの五輪塔を置いている。
団右衛門は、大坂冬の陣で豊臣秀頼の軍門に加わり、大野治房勢の先鋒を勤め、「夜討ちの塙団右衛門」の名で武勇を轟かせた。
淡輪六郎兵衛重政の墓碑は南中樫井町のほぼ中央部に建てられ、高さ1.5mの宝篋印塔型で、墓の範囲は約12㎡である。
重政の姓は橘氏で、堺出身のキリシタン大名、小西行長に仕えていたが、関ヶ原の戦いで主家が滅亡し浪人となった。
大坂冬の陣で豊臣秀頼方に加勢し武功をあげた。
史跡 大坂夏の陣 樫井古戦場
大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は元和元年(一六一五)四月二十九日、ここ樫井の地で展開された。
冬の陣の和議のあと、外濠を埋められた大坂方は、このたび先手をとって出陣し、泉州へは大野主馬を主将として二万余の大軍を差し向け、徳川方の和歌山城
主浅野長晟の軍勢五千余を押えようと図った。
二十八日、浅野方の先陣は佐野市場へ到着、大阪方は岸和田を越えて進撃を続け、翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。数的に劣勢な浅野方
の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松、樫井に移した。
大軍を迎え討つには、市場は東は野畑が広いうえ、山遠く、西は海で浜辺が広く、馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松、樫井は、東は
蟻通の松原、西には樫井の松原が海まで続き、中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため、豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断し
た。
一方大坂方は、ここで取返しのつかない大敗を演じた。
主将、大野主馬は慎重な作戦をたてていたが、先手の大将、塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし、小勢で飛出してしまった。二十九日未明、塙、岡部の両将
を迎え討った浅野方の勇将、亀田大隅は安松を焼き払い、池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がり、ここで決戦をいどんだ壮烈な死斗
が街道筋や樫井川原でくり返された。
一団となって戦う浅野方、ばらばらの大坂方、まず岡部が敗走し、塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、遂に矢を股に受け、徒歩ているところを討ちとられてし
まった。
かくして樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じ、この夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日、遂に堅固を誇った大阪城も落
城し、豊臣氏はここに滅亡したのである。
泉佐野市
泉佐野市教育委員会
明治大橋
昔の人たちは、この樫井川をどのようにして渡ったのだろうか?明治大橋と名付けられたこの橋は、当時は無かったであろう。そんな事を考えながら、今朝か
らの雨で水かさの増した樫井川を渡り、対岸の泉南市へと進む。
産廃業者のヤードを左右に見ながら、上り坂を登ると右手に国史跡の海会寺跡が見えた。こんな所に国史跡があるとは知らなかった。右手には2階建ての立派
な古代史博物館が建っている。今日は日曜日なので、残念ながら古代史博物館は休館日の様だ。海会寺跡もバリカーが張られて駐車場に車が入れない様になって
いるが、歩いて入るには問題は無さそうなので一巡してみる事にした。
国史跡 海会寺跡
ここは、およそ1350年前に造られた海会寺(かいえじ)というお寺の遺跡です。発掘調査によって奈良の法隆寺ににたりっぱなお寺と、そのお寺を造った
豪族の大きな屋敷がみつかりました。
海会寺
7世紀後半(白鳳時代)に建立された古代寺院で、とても保存状態がよくこれまでの発掘調査により金堂、塔、講堂、回廊、南門、築地等の主要な伽藍が発見
され、その伽藍配置は法隆寺式伽藍配置であることが判明しました。また、お寺を造るための大規模な造成工事や、お寺で使われる瓦や金属製品を造ったかま跡
も見つかっています。
全国でたくさん見つかっている豪族建立寺院のなかでも、お寺の全体が明らかになっている例は少なく、海会寺跡はとても重要な例といえます。
豪族の屋敷
お寺の東側の広場から、7世紀初めから9世紀の間に営まれた堀立柱建物の村が発掘されました。
200年以上にわたり、何回も建物が造られていますが、中でも8世紀代には巨大な堀立柱建物群が現れます。これは非常に大きな建物で、しかも特殊な配置
をとっていたため、一般民衆の住居ではなく、海会寺を建立した有力な豪族の屋敷(居館)と考えられています。
出土した遺物
美しい蓮華文を飾る軒丸瓦、堂内に納められた?仏、塔の頂上にかかげられた相輪、屋根の軒先を飾った風鐸など非常に多くの寺院に関係する遺物が出土しま
した。このことは海会寺が完成された寺院であったことを裏づけています。また、これらは専門の工人(職人)がつくったもので、やはり都にいた有力者からの
援助なしには、手に入れることはかないませんでした。
『兄弟』の瓦
海会寺で見つかる瓦はみんな都で使われている瓦と同じ位美しいものでした。しかも、ここで最初に使われた軒丸瓦は、奈良、木之本廃寺と大阪、四天王寺と
いう有力寺院で使われたものと、まったく同じ文様が使われている(同笵)ことがわかりました。これは3つのお寺がお互いに強い関係にあったことを示してお
り、このことからも海会寺を造った豪族が、当時の都の有力者たちと強く結びついていたことがわかるのです。
海会寺跡からわかること
このように海会寺跡では、寺院、豪族、居館、出土遺物などすべての面から、このように海会寺建立豪族と律令体制の中心である中央国家が密接な関係にあっ
たことがうかがえます。これは古代史、特に律令制度の内容を解明していくうえでとても大切なことなのです。そのため昭和62年12月25日、海会寺跡は国
の史跡に指定されたのです。
泉南市
泉南市教育委員会
A 金堂
B 塔
C 講堂
D 回廊
E 中門
F 南門
G 築地
H 整地層展示
I 溝
J 海会寺跡全体模型
K 豪族の屋敷
L ガイダンスパネル
M 緑の散歩道
N 一岡神社
O 埋蔵文化財センター
P 駐車場
海会寺の中心
今皆さんがいる場所がほぼ海会寺の中心です。むかって左側の高い石積みは塔、右側の小さな高まりが金堂の基礎の一部分、そしてその奧に見えるのが講堂で
す。まわりを囲んでいる朱色の柱は回廊のものです。今はお寺の建物の基礎しか残っていませんが、1350年の昔、ここにあったりっぱなお寺をイメージして
みてください。
塔
巨大な塔を支えるためにしっかりとした基礎が作られました。少し土を積んでは細い棒でつきかためていき、そしてそのまわりには土がくずれないように、地
元でとれる和泉砂岩という河原石を積みあげました。この石積みの頂上には、?と呼ばれるレンガのような焼き物が敷かれました。重い柱を支えるため、その下
に和泉砂岩製の礎石がおかれました。
規模:基礎一辺13.2m、高さ2m、柱間2.4m
金堂
現在は神社の真下となっているため、その一部しか見ることができません。でも発掘調査では石積みが見つかり、塔と同じ河原石で積みあげた基壇だったこと
がわかっています。
規模:基壇東西21m×南北推定17.4m
講堂
礎石はすべて失われていましたが、そのあとから柱の位置がわかり建物の規模が判明しました。基壇は河原石積みで、高さは塔や金堂と比べ低いものでした。
規模:基壇東西21m×南北13.8m、桁行7間(16.8m)×梁行4間(9.6m)
回廊
発掘調査により、花崗岩製の柱礎石がみつかっています。柱をおく部分が丸く削り出されています。塔の柱礎石との違いを比べてみてください。
規模:基壇幅4.6m、桁行2.1m×梁行柱間2.4m
海会寺をつくった豪族の屋敷
お寺の東にひろがるこの広場には200年以上のあいだ営まれた村がありました。なかでも海会寺が造られたころ、とても大きな屋敷がつくられました。この
屋敷は当時の一般的な住居とくらべると数倍大きいものです。この屋敷に住んでいたのは、このあたりの村々を治めた有力者、海会寺を造った豪族だったので
す。
豪族の屋敷
この広場には海会寺が造られる以前、7世紀の初頭から9世紀までの200年以上の間、古代の人々が暮らしていました。なかでも海会寺建立後、8世紀初頭
になると集落内に巨大な堀立柱建物群が出現しました。東西に長くもっとも大きな建物(正殿)と南北に長い建物(脇殿)が並んでつくられたものです。
この位置からみると、正殿と脇殿は柱列を一直線上にそろえてつくられたことがわかります。実は建物の間隔も綿密に計算された上で建てられています。この
ような大規模、企画性は一般の集落では見られないもので、正殿が南側に庇をもち、正殿と脇殿の前に広場があることなどからも、当時の都や役所の建物の配置
をまねたものといえます。
この役所風の建物配置は、海会寺をつくった豪族が、律令国家の中心地・奈良の都にいた有力者たちの影響を受けたためと考えられています。
規模:正殿 東西13,8m(桁行6間)×南北7m(梁行3間南北庇付き)面積約87㎡
脇殿 南北11,8m(桁行5間)×東西5m(梁行2間)面積59㎡
寺と集落を区画する大溝
海会寺とそれを造った豪族の住む屋敷との間は、南北方向にまっすぐにのびる断面がV字形の大きな溝がありました。
溝の長さは27m以上で、幅3m、深さ1,5mをはかるものです。また、溝の中央付近では、幅3mにわたって陸橋(ブリッジ)状に埋めもどされている部
分がありました。溝は整備のためにすべて埋めましたが、ちょうどこの模型の近くまでのびていました。
この大きな溝は、寺院を造営するときと前後してつくられていることや、寺院の推定西端ラインからほぼ1町(約109m)の距離にあたることなどから、海
会寺の東端を示すものです。また寺院の空間と豪族の住む屋敷の空間を区画するためのものでもあったのです。
水が湧く小さな谷
豪族の屋敷の南側で水の湧く小さな谷を発見しました。この谷からはおおくの土器とともに8世紀の木桶(水を出したり留めたりするための木製の水路)など
が出土しました。この谷は今は完全に埋まっていますが、当時水を確保するために大切な場所だったのです。
粘土とりの穴
お寺を造る時には、とてもたくさんの瓦が必要でした。その瓦を準備するには材料となる粘土の調達が欠かせません。海会寺の場合は、周辺の調査により寺院
の推定西端に近いところで、たくさんの粘土とり穴がみつかっています。
一岡神社
国史跡海会寺跡に隣接して一岡神社がある。一岡神社を見て高校時代にこの前をオートバイで通った事を思い出した。当時は旧街道沿いの古い神社としか認識
していなかったが、神社に掲げられた「一岡神社之由緒沿革」を読んで初めて、この神社が由緒正しい大社である事を知った。
一岡神社之由緒沿革
鎮座地 泉南市信達大苗代三七三番地
御祭神
本殿主祭神 建速須佐之男尊
同相神 稲田姫尊
同 八王子命
同配祀 菅原道真公
同 譽田別命
境内神社 白山神社 御祭神 伊邪那岐尊
同 日吉神社 同 大国主命
同 稲荷神社 同 宇伽之御魂命、猿田彦命
同 厩戸王子神社 同 厩戸王子命
同 市杵島神社 同 市杵島姫命
同 牛神神社 同 大己貴命
第二九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫、日に増して激しく流行するに及び、時の長人一岡神社に平癒祈願をなさしめたる処、神徳顕著に現証され、そ
の寄徳を仰ぎ、山城國に御分霊を齊して疫病除け祈願の神と定められたと云う。その後第三三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に厩戸皇子(聖徳太子)はこの
地に七堂伽藍を建立、海営寺と称し一岡神社を海営宮と改め鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬され、又後の第四五代聖武天皇の御代天正五年(西暦一五七
七年)織田信長の兵火に罹り焼失、その後第百七代御陽成天皇の御代(西暦一五九六年)村民氏子によって新築再建、その昔は実に六七六〇坪に及び、尚、一五
〇〇坪のお供田を有し日根郡内唯一の大社として栄え 祇園さんとして親しまれ現在に至っております。
信達宿本陣跡
一岡神社を出て少し進むと左手に海会宮池の築堤が見え、新家方面からの府道と交差する。この複合の交差点を過ぎると信達市場の宿場町へと続く。この辺り
から街道と呼ぶにふさわしい情景に変わってきた。右手に信達宿本陣跡の角谷家住居が建っている。信達宿は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸
時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣旅籠などが設けられ、今日も往時の面影を偲ばせている。
長慶寺
信達宿本陣跡から少し先の路地の角に「長慶寺」の看板が見えている。長慶寺には今まで一度も行ったことが無い。良い機会なので立ち寄ってみようと思う。
路地を左に曲がり民家の間を道なりに進むと駐車場が見えてきた。駐車場の向かい側から参道の階段を登る。階段の左右には小雨に濡れた紫陽花の花が咲き乱
れている。
百段の石段を登ると立派な山門が姿を現した。山門の左右には仁王像が立っている。地元泉州にこんなに立派な仁王像があるとは知らなかった。徒ならぬ雰囲
気を醸し出している。
山門を潜ると正面に本堂が見え、左手一杯に広大な石庭が広がっている。本堂の左奧には多宝塔が建ち、振り返るとこれまた驚くほど美しい建てたばかりと覚
しき三重の塔が聳え立っている。
長慶寺由緒
長慶寺は神亀年間(七二四年頃)人皇四十五代聖武天皇の勅願寺で行基菩薩の開創、往時は海会宮寺と号し現在の一岡神社、海会宮池の周辺に七堂伽藍を備え
た大寺院であった、白鳳様式の古瓦や和同開珎など出土、奈良法隆寺と同じ建築様式と推定される、
覚鑁上人が根来寺建立されるや北の玄関寺として繁栄したが天正六年(一五七八年)織田信長の兵火により伽藍を殆ど焼失、奥の院のみ類焼を免れた、その後
慶長年間(一五九六~一六一六年)豊臣秀頼の命により大野主馬治房は代官川村久米を普請奉行とし現在地に移築すると共に年号を逆にして長慶寺と改む、以来
徳川幕府の寺社政策と強い観音信仰に支えられ岸和田城主岡部公歴代の祈願所となり寺運は隆昌したと云う、また和泉西国二十八番、阪和西国二十五番、南海沿
線七福神の福禄寿、ばけよけ地蔵尊二十三番霊場であり巡拝者が訪れる、
本尊は行基菩薩の御自作の如意輪観音菩薩で秘仏となっており、六十年に一度のご開帳である須弥壇両脇には多聞天、持国天が警固、左脇陣には愛染明王、福
禄寿、不動明王、右には弘法大師、役の行者を奉安する、又、持仏堂は阿弥陀如来、多宝塔には行基菩薩が祀られている他、境内には西国三十三ヶ所、阪東三十
三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各観音石仏が数十の御堂に祀られており、その百体仏に因んで石段も百段となっている、境内が小高い丘に位置するため眺望絶佳にて
徳川幕府湯島聖堂の儒者、林羅山が吟じ江戸中期和泉の史家石橋直之も長慶寺八景として葛城暮雪、淡路落日などを賞しておるほか著名士も当一文をものした由
緒あがる
明王山 大日寺 往生院
長慶寺を出て熊野古道に戻ると、もう時刻は1時半になっていた。そろそろ昼食を摂りたいのだが、この周辺には飲食店が全く無い。信達牧野でJR和泉砂川
駅に向かって歩いてみたが、駅前でも適当な店が見付からない。もう少し我慢して熊野古道を進むことにする。駅前通りから熊野古道に戻って少し行った所に往
生院という寺が有った。寺の由緒を読んでみると、これまた凄い事が書き記されているではないか。
明王山 大日寺 往生院 由緒
白鳳八年、天武天皇の勅命で道昭が創立した、当地の呼淤郷は大和朝廷時代から天皇家の直轄地だった、国家鎮護のためこの寺院を建立した、道昭は朝鮮百済
から渡来した船氏の出身で、船舶、海運、土木工事の担当部族として朝廷に仕えていた、道昭は第二次遣唐大使の随員として唐の都、長安に留学し、玄奘三蔵に
ついて八年間勉学す、帰朝後、飛鳥元興寺の禅院で法相宗を開き元祖となった、同時に日本全国を回り、港湾を築き、川を整え、池を掘り、国土開発に尽くし
た、道昭の創立したこの寺院は五丁四方の広大な境内を持ち、飛鳥寺様式の伽藍配置で、信達を寺領とした、
白鳳十年、金熊寺に信達神社が創祀され、神武天皇を祭神とした、
平安中期、摂政藤原忠実の荘園となり、鎌倉、南北朝まで近衛家が統治した、熊野信仰が盛んになり、上皇、貴族が行列を組んで百回に及ぶ熊野詣をした、信
達の四王子を参拝した足利尊氏が信達荘を根来寺へ四季大般若転読料所として寄進す、豊臣秀吉の根来攻めで全焼した、文禄の太閤検地で寺院境内は四〇四坪と
なり浄土宗に改宗された、元禄四年、真言宗に戻り、京都仁和寺は本山となった、
大阪教育大学名誉教授 文学博士 芝野庄太郎 謹撰
げんじょう【玄奘】 ‥ジヤウ
唐代の僧。法相宗・倶舎宗の開祖。河南の人。629年長安を出発し、天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の戒賢らに学び、645年帰国後、「大般若
経」「倶舎論」「成唯識論」など多数の仏典を翻訳。「大唐西域記」はその旅行記。「西遊記」はこの旅行記に取材したもの。玄奘三蔵。三蔵法
師。(600~664一説に602~664)
広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店
往生院を出てその先を進むと「大鳥居」という交差点が見える。ここで熊野古道は根来街道と交差する。その辻の角に「お食事処」の暖簾を掲げた店があっ
た。
扉を開けて中に入ると何となく寿司屋っぽい雰囲気がする。昼間っから寿司屋に入ってしまったかと不安になったがお品書きを見ると普通に定食も有るよう だ。一通りメニューを見て「田舎定食」にする事にした。
程なくお膳が運ばれて来た。質素だが味は抜群だ。これぞ地元泉州の味だ。近場で良い店を見付けた。そんな気がする。
林昌寺
お食事処「八百吉」で遅い昼食を済ませた後、再び熊野古道を歩き始めた。信達の市街が終わりに差し掛かると緩やかな坂道へと変わり、その坂道の途中に
「迎四国八十八所躑躅山林昌寺」と標された古い道標が建てられていた。
最後の寺の字がアスファルトに埋もれている。道標に示された右手の人差し指の方向へ 進み、JR阪和線の踏切を渡った先に「林昌寺」が見えてきた。
この「林昌寺」は山号を「躑躅山」といい、岡大師とも呼ばれている。天平年間、聖武天皇の勅願寺として行基によって開創されたという。
苔むした階段に足 を取られながら参道を登り門を潜ると正面に本堂が見えた。
右手の山の斜面はツツジの庭園になっている。ツツジの咲く季節はさぞかし美しいのだろう。
岡中鎮守社
林昌寺を出て、JR阪和線の踏切を渡るとサンマ池の向こうに電車が通過した。水面を叩く雨の波紋、バックの竹藪の緑、微妙な梅雨の風景の中を電車の青い
ラインが通り過ぎて行く。
熊野古道に戻ると坂道が下りへと変わった。道光寺池の手前で「歴史街道熊野街道」の案内板が見えた。
地図を持たずに歩いているので、案内板があると有難 い。道光寺池周辺図によると、熊野古道はここで進路を左に取り、岡中の集落を通る様である。
岡中には府指定天然記念物の岡中鎮守社の楠と槇がある。車で通ると通り過ぎてしまうところだが、こうして歩いていると、いろんな好奇心が芽生えて、寄り
道したくなる。
JR阪和線のガードを潜り岡中の集落に差し掛かると、途中に「是よりあたご迎四国みち」の道標が見えて来た。
軽四がやっと通れそうな細い道に古い町並 み、その先に大きな大きな楠が聳えている。
軽四が実物ではなく、ミニカーの様に見える程に大きく立派な楠だ。根元回り12m、高さ30m、枝は300㎡も ある。その横には、これもまた立派な槇の木があり、こちらは幹が1m、高さ25mもある。
岡中鎮守社から岡中の集落を出ると、車が行き来できる広い道へと抜け出た。少し歩くと泉南ICからの広い道と交差し、田園風景の中を上り坂が続く。家を
出てから、もう、かなりの距離を歩いている。疲労も蓄積され、少しの上り坂も堪えるようになってきた。登り切った辺りで自販機があったので休憩する事にす
る。
時計を見ると3時半を過ぎている。この辺りで今日の目標地点を考えてみる。帰りは鐵道を使う心算なので、どうせなら、JR阪和線、大阪側の最端駅である
山中渓駅を目標にしよう。そう決めたら、目指すは山中渓、黙々と歩くしかない。
地蔵堂王子
新しくできた住宅街を抜けると、山中渓の一駅手前、和泉鳥取駅が見えてきた。ここからは阪和線に沿って広い道が続く。途中、住宅の角に案内板が見えたの で、その角を曲がり進んでいくと、小さな児童公園のフェンスに地蔵堂王子の看板が掛かっていた。
地蔵堂王子
熊野詣が盛んにおこなわれていた頃(平安時代後期1200年ごろ)、その道筋に熊野権現の分神が祀られました。これを「王子」といい、浪速(大阪市)か
ら熊野(和歌山県本宮市)までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれていました。そのうち阪南市内には、二つの王子があったとされ、その一つが
この地蔵堂王子です。
現在、地福寺にある「子安地蔵」は、もとは地蔵堂王子のご神体であったとされています。また、この地蔵堂王子の北側に、「琵琶ヶ岸懸」があり、熊野詣で
最難関とされていました。
阪南ライオンズクラブ
琵琶ヶ岸懸
地蔵堂王子のある住宅街を進むと舗装路が途切れ、その先は間道へと変わる。間道を登った所に、地蔵堂王子の案内板に記されていた「琵琶ヶ岸懸」があった。
薄暗い間道から谷を見下ろすと真下に山中川の流れが見える。琵琶を奏でるような音が聞こえるか?そんな余裕は無く、琵琶法師が谷を真っ逆さまに落ちていく「ザザッ」という音のように聞こえてしまう。
熊野古道の名は大阪府下では似つかわしくないと思っていたが、この琵琶ヶ岸懸だけは例外だと感じた。「熊野古道遙かなる道」はすでに始まっているのだ。
琵琶ヶ岸懸から先は廃道となっている。藪の中をかき分けるようにして廃道を進むとガレージの並ぶ所まで出てきた。
旧跡 「琵琶ヶ岸懸」(熊野古道)
昔、琵琶法師が熊野詣を思い立ち、琵琶を背にこの谷間で来たとき、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。法師のなきがらは川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので、人々はこの谷を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられています。
熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。
今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。
足元がきわめて危険です。見物される方は十分注意して下さい。
馬目王子
馬目王子
熊野詣が盛んにおこなわれていた頃(平安時代後期・一二〇〇年ごろ)その道筋に熊野権現の分神が祀られました。これを「王子」といい、浪速(大阪市)から熊野(和歌山県本宮市)までの間におかれ、総称として「九十九王子」と呼ばれていました。そのうち阪南市内には、二つの王子があったとされ、その一つがこの「馬目王子」で大阪府最後の王子です。場合によって「ウハ目王子」とも呼ばれています。字名や言い伝え等から、この周辺にあったとされています。現在、馬目王子のご神体は山中神社に祀られているといわれています。また、地域では「足神さん」と呼ばれ親しまれています。
阪南ライオンズクラブ
馬目王子から少し歩くと「田中武八翁碑」が見えてきた。ここまで来ると目的地のJR山中渓駅まであと少しだ。
阪和線の線路下にアーチ状の地下道兼用水路が見える。なぜ地下道と用水路が兼用なのか?暗渠でないのが不思議に思う。
山中渓駅
午後4時20分、目標のJR阪和線山中渓駅に到着した。
雨は上がっているが辺りは薄暗く、駅の外灯がすでに灯されている。