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熊野古道遙かなる道
平成18年7月3日(月曜日)
山中宿本陣跡地
翌週の休日、前回の終着点、JR阪和線山中渓駅に降り立った。
時間は既に午前11時を回っている。
ひょんな事から思いつきで始めた「熊野古道の旅」だが、これから先、出来る限り多くのものを見聞してみたいと思う。
元来私はガイドブックを片手に旅するのは嫌いではあるが、せめて出発前にはある程度の情報を得た方が良いと考え、扶桑社から刊行されている「熊野古道 公式完全ガイド 紀州和歌山県版」を購入し、切り離し可能なマップを携行して行く事にした。
山中渓駅から一旦、府道貝塚和歌山線を大阪側に戻り、「紀州街道入口」を起点に歩き始める。
◇紀州街道◇
紀州街道は、江戸時代紀州と泉州の交易ルートとして紀州、泉州の重要な役割をもっていました。
その道筋は、大阪市を出発点とし、堺、岸和田、阪南市山中渓、雄ノ山峠を経て、和歌山に至る経路で山中渓でも、山中宿として、参勤交代の大名や商人達で、にぎわいました。
旧庄屋屋敷(江戸時代)
この古い屋敷は、江戸時代中期の建物(築後250年。一部補強改修)で、当時の庄屋の屋敷である。
広い土間、数多くの部屋、太い梁の木組、土蔵、煉瓦づくりのアーチ型の裏門、広い庭園など泉州路屈指の屋敷である。
庄屋は村の統率者で、組頭、百姓代と共に村方(むらかた)の三役で、その最上位である。郡代、代官の命をうけて村の統治にあたり、村の諸事から年貢の割当てなど責任のある仕事にあたった。
一般に関西では庄屋といい。関東では名主とよばれていた。
山中神社
承暦三年(1079年)八月八日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より、信仰する八王子神(あまのほひの命)をもって当山中に移り住みこの地におまつりした。
後日、神のお告げにより当地の西北にある高山の頂上に社(八王寺神社上之宮で現在は跡地)を建てておまつりした。
この山中神社には、上之宮より移記した八王子神(本地十一面観音)をおまつりする社と、馬目王子(熊野古道九十九王子の一社)の社とがある。
元和三年(1613年)ごろこの観音は盗難にあったが、いつの間にか元の社にかえされていたといわれている。
山中神社 由来記
八王子社 祭神(天忍穂耳尊)
馬目王子社 祭神(後白河天皇 磐長姫命)
○ 八王子社(本地十一面観音像)
承暦三年(1079年)八月八日
澤四郎善眞 紀州岡崎より八王子神(天忍穂耳尊)の神像袖内に蔵し山中に来たりて祭祀す
承暦四年(1080年)十一月十八日
北西高山の頂に八王子上之宮建立
永長元年(1096年)十一月八日
八王子神分霊を麓に下之宮創建
山中神社の起源で善眞の子孫が永代神主となる
○ 馬目王子社 (熊野古道九十九王子)
大阪最南端の王子社で山中部落入口王子原に祀られていた。
足神さんとも名高く大きな草鞋が奉納され附近から清水が滴り法皇上皇はじめ熊野参詣者の遙拝所兼休憩所であった。
明治四十二年(1909年)神社合併合祀の際社家三澤家当神域に遷し石の禿蔵に祀る。
王子原の跡地は昭和五年(1930年)阪和線開通時に平地化した。
附記
○ 八王子社観音堂 (奥の院)
応徳元年(1084年)二月十八日
澤四郎善眞岡崎観音寺(十一面観音像)勧請
奥の院建立神宮寺形式で八王子神祀る
元和三年(1617年)九月
観音像盗難 老僧にて返さる
明治五年(1872年)
檀那寺に御勧請す
明治三十二年(1899年)正月
観音堂再建さる
昭和四十六年(1971年)二月
現観音堂三澤家邸内善眞碑傍に建立
八王子神とは
天照大神(三女神)
素戔嗚尊(五男神)
八皇子の代表神天忍穂耳尊を祭神とす
旅籠「とうふや」跡
紀州街道山中宿のこの附近には、当時二十余軒の旅籠が軒をつらねていたが、時代とともに次第にその姿を消し、最後まで残っていたこの地の「とうふや」も昭和の終わりごろ、その姿を消した。
座敷は上中下の三段になり、明かりとりの天窓、内庭の七つの「へっつい」(かまど)、六枚に仕切られた腰高障子、また旅に必要な牛馬舎などは裏庭に残されていた。
この歴史の古い建物が、なくなったのは如何にも残念である。
「とうふや」というのは豆腐とは関係なく旅籠の屋号である。
山中本陣跡地
元和五年(1615)徳川ョ信公が紀州に封ぜられてより、参勤交代時の本陣があった跡地である。旅宿としてではなく、休憩、昼食時の本陣である。
紀州公がこられる時は近郷より三千人もの人夫、助人がこの地に集まり、炊飯、運搬、補給、清掃等の仕事にあたった。
建物は建て替えられているが、土壁にかこまれた屋敷、広大な庭、老木、苔むした庭石など往時の盛観さが偲ばれる。
山中本陣跡地近くの民家の軒下に、面白い物を見つけた。
色とりどりの機関車に西欧風の駅舎が並べられている。
建物の構造を利用した、さり気ない和洋折衷のセンスに感心する。
日本最後の仇討ち場
紀州街道は山中渓駅前で府道と合流する。
その角地に道祖神が祀られていた。
道祖神 (塞之神)
この板状の石を屋根にした小社は、塞之神(さえのかみ)をかさねた道祖神である。
山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣」の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってこられた。
江戸時代紀州藩では、毎年十二月二十日に犯罪者や悪疫の病人を、境橋(当地区の南、和歌山県との県境)より和泉の国に追放した。当地では、「はての二十日のろうばらい」といって戸を仕め切り悪疫の退散を願った。
当時山中では被害が少なかったのは、塞の神のおかげであったといわれている。
府道貝塚和歌山線を進むと和歌山県との県境の境橋が見えてきた。
その手前を左手に少し上がった所に「桜地蔵」があるので立ち寄ってみる。
ペットボトルのお茶を飲んで少し休憩する。
和歌山県との県境にある境橋の袂に日本最後の仇討ち場の碑が建てられている。
この橋の向こう側は和歌山県で、高校のマラソン大会の折り返し地点だった所で思い出深い。
毎年秋になると全生徒が学校から往復20kmの道のりを走らされた。
大会前の1ヶ月は、体育の授業は5kmマラソン。
19分台で走ったので授業の半分は遊びだった。
現在では交通事情を理由に廃止されているが、昭和の時代はスパルタ教育がまかり通っていたんだなと思う。
他校では男子赤褌遠泳という高校もあったのでセクシャルハラスメントに悩むよりましだろう。
何れにせよ私としては、1時間20分程走れば1日登校した事になると喜んでいたのは事実である。
史跡
日本最後の仇討ち場
安政4年(1857年) 土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。
大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた。(安政5年)
岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国ばらいとし境橋より追放するので、あだうちをしたければ境橋附近、和泉側にて、すべし...」と伝えられた。
文久3年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとにあだうちを果たしたとされている。
これは、日本で許された最後のあだうちであると伝えられる。
中山王子跡
境橋を渡ると和歌山県に入る。
紀州最初の王子、中山王子は阪和線の第一滝畑踏切を渡った右手にある。
中山王子跡
かつて、京都からまでの熊野参詣道に、八十余カ所の王子社が祀られていました。王子社というのは、俗に「熊野九十九王子」といわれている熊野権現の御子神を祀る社のことです。中山王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条に、その名が見られます。また、この付近は「雄の山中」といわれた所から、藤原頼資の日記では「山中王子」と書かれ、承元四年(1210)四月二十四日条に、修明門院が山中王子に参拝し、峠で雄山の人たちや無禄者等に、椎五、六十両程を、ふるまったと記されています。江戸時代には、道沿いに、周囲三十六両の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。
滝畑集落出口の第二滝畑踏切には、「この踏切は、車幅1.3Mを超える車は通れません。」の看板が掲げられている。
360ccの軽四が通る姿を想像してしまう。
雄ノ山峠
第二滝畑踏切を渡り県道和歌山貝塚線に出ると、そこからは緩やかな上り坂となる。
阪和自動車道を潜り高速道路と平行して進むと峠付近に「峠の不動明王」が祀られており、案内板にはこの付近に猪が出没すると書かれている。
峠の不動明王さま
風雪に耐え路傍に立ちて数百年、旅人の安全を護って下さいました。
熊野詣でをはじめ、この峠を越えた旅人は救われる。
峠を越えると急な下り坂となり、紀ノ川平野が展望できる。
歩いて眺める景色は車窓からの景色とは格段に違って見える。
ご褒美を貰ったようで嬉しい。
紀の関
雄ノ山峠を下りJR阪和線を潜ると万葉歌碑があり、このあたりは紀の関と呼ばれ関守が居たそうだ。
白鳥の関とも呼ばれている。
昔、この近くの村に飽きっぽい若者が住んでいた。
若者はある日、羽に矢の刺さった一羽の白鳥を助けあげた。
夜、夢の中に助けた白鳥が現れ、助けてもらったお礼に願いを叶えましょうと言ったので、若者は綺麗で優しい嫁を世話してくれと頼んだ。
三日後、若者の所に美しい嫁が来た。
美しい嫁はよく働き若者に尽くしたが、若者は嫁に飽きて、今度は嫁の代わりに立派な弓矢を求めた。
それを聞いた嫁は夜、泣いていたが、朝になると姿を消し、代わりに立派な弓矢が置かれていた。
若者は立派な弓矢を使いこなせず、村人達から馬鹿にされ、弓矢に向かって「弓矢はいらん!欲しいのはお前だ!」と叫んだ。
すると弓矢は白鳥に姿を変え飛び立っていった。
若者は夢中で白鳥を追いかけ、関所を越えようとした若者は関守に呼び止められた。
恐る恐る関守の顔を見ると、関守は女で目から涙を流していた。
「この関を通しません。もう願いは叶いません。」
その関守は消えた嫁だった。
涙を拭った袖は白い羽と変わり、それを見た若者は仰天して山を下った。
この時から紀の関を「不死鳥の関」と呼ばれるようになったそうです。
山口王子跡
わが背子が 跡ふみ求め追ひ行かば 紀伊の関守 い留めてむかも
万葉句碑の近くに紀州路二番目の山口王子跡がある。
山口王子跡
この地は、かつて、雄ノ山口の湯屋といわれていました(現在も湯屋谷という地名があります)。永保元年(1081)九月二十五日、藤原為房は、ここから国府の南路、日前宮を経由して藤代に向かっています。王子社名は、藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条や、藤原頼資の日記、承元四年(1210)四月二十四日条に見られます。定家は後鳥羽上皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を書き残したのです。天保十年(1839)に完成した「紀伊続風土記」には、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が三十二間の王子権現社であったことが知られます。この王子社は明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。なお、古代に雄山に置かれていた関所は、白鳥関と呼ばれており、白鳥伝説を残しています。
伝・小野小町の墓
山口王子跡を過ぎると小野寺橋という橋が架かっている。
百人一首に登場する小野小町は、老年、熊野参詣の途中、この湯屋谷の辺りで亡くなったと伝えられている。
伝・小野小町の墓
年老いた小野小町が熊野参詣の途中で、この地でなくなったため、村人がお堂を建てて弔ったとの言い伝えがある。小町堂と刻まれた石碑が山口王子社跡の南東約100mの墓地にある。
県道和歌山貝塚線と粉河加太線が合流する辺りに墓地があり、その角を曲がると山口神社の鳥居が見えてくる。
鳥居の先が山口神社への参道だが、道路は鳥居を避けるように敷かれている。
山口神社の境内に休憩所があったので、ここで休憩させていただいた。
山口神社
奈良時代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう際に、戦勝祈願した社と言い伝えられる。江戸時代には春日明神社であったが、明治維新後に日吉神社と称し、明治42(1909)年に湯屋谷の王子権現社(山口王子社と推定される)や白鳥神社等を合祀し山口神社と改称した。近接して山口廃寺が位置し、谷集落南端の鳥居の前の道が熊野古道と推定されている。
川辺王子跡
山口神社の休憩所で休息をとってから山口小学校を目指し歩き始める。
山口御殿は、参勤交代途中の休憩所であり、里集落にある山口小学校の辺りにあったとされている。
里集落は、和歌山城下(京橋)から北東3里(約12km)に位置し、大阪に至るまでの最初の伝馬所が置かれていた。
山口の文化財
えびす井戸
この井戸の奥に「えびす」さまが祀られていました。
明治四十年代山口神社に合祀されました。(御手洗と祠の跡が残る)
紀伊続風土記(天保十年・1839年)に里村「えびす小祠」の記述がある。
江戸時代からあったこの井戸は付近の住民が共同で使用していた。山口御殿の人も使用したという。
西山浄土宗
仏光山
遍照寺
山口小学校隣の遍照寺には小野小町の木像が安置されている。
絶世の美女といわれた小野小町晩年(88歳)の像。
遍照寺の前の道を進み、次の川辺王子跡を目指したのだが、県道粉河加太線まで出てしまい、紀伊上野バス停の辺りで迷ってしまった。
後ほどの案内板の説明にも記されているように参詣道が不自然に迂回している。
川辺王子跡
藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月八日条に「川辺王子」、藤原頼資の日記、承元四年(1210)四月二十四日条に「四橋」の王子名が見られます。四橋王子という名は、和泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近にあったことから、名付けられたのでしょう。山口王子が三橋王子といわれたのも、このためだと思われます。この王子社は、「紀伊続風土記」によると、いつのころからか、八王子社と呼ばれるようになり、江戸時代には川辺村(和歌山市川辺)の力侍神社境内に遷座したとあります。当地に残った旧八王子社を川辺王子跡と考証したのは、「和歌山県聖蹟」ですが、参詣道が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあったとする説もあります。
川辺王子跡 (市 史跡 昭和33年指定)
中村王子跡
川辺王子から田園が広がる農道を通って中村王子へと向かう。
途中、民家の間を抜けて何度か曲がり角を曲がるが、道路に埋め込まれた熊野古道の標識を目印に、迷わずに歩くことができた。
楠本の集落を抜ける道から少し外れた所に中村王子跡があった。
道路脇に案内板があるのみで本当に此所なのかと疑問に思う。
案内板が邪魔にならない所が指定されたかの如く浮いた感じがする。
熊野古道
中村王子社跡
川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。
川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道すじが時代によって多少変わったためと考えられる。中村王子社次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。
平成五年三月三十一日
和歌山市教育委員会
中村王子社跡から少し進むと左手に天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)を祀る力侍神社がある。
天手力男命は、天照大御神が岩戸隠れされた時に、その怪力をかわれ天照を連れ出すため重い扉を開いた神として伝えられている。
扉を開けた後、放り投げた扉は信濃の国(戸隠村)まで飛んだという伝説も残されている。
天孫降臨の際には、邇邇芸命(ニニギノミコト)の伴として働いた神でもある。
これは、私の勝手な推測ではあるが、古代神話に登場する神々は、自然界の天変地異を収める神であったと考える。
戸隠村まで飛ばした扉(岩)は、火山岩ではないだろうか。
古代の神々は、鉱石や水銀を求めて中央構造線沿いの地域を開拓し、各地に説話を残したのではないかと思う。
和歌山県指定文化財(建造物)
力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿
昭和五十四年六月九日指定
力侍神社はもと天手力男命を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している。
南から参道を通って社地に入ると、向かって左の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子社の社殿である。両社ともにはじめからこの場所に建てられていたのではなく、力侍神社はもと神波(現社地の北西約700メートル)にあり、その後上野(現社地の北西約一キロ)の八王子社境内に移り、さらに江戸時代のはじめ[寛永三年(1626)]に両社ともにこの地に移されたと伝えられる。
社殿は流造、一間社、檜皮葺きで、正面と両側面には縁をめぐらし、擬宝珠高覧をおき、背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引違いの格子戸を入れ、側面と背面は板張りの壁とする通常の形式である。
両社殿ともに建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて十六世紀終わりごろに建立されたものと考えられる。木鼻や蟇股などの彫刻の優れており、全体に建立時の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料である。
平成五年三月三十一日
和歌山県教育委員会
和歌山市教育委員会
力侍神社
ぎ‐ぼうし【擬宝珠】
(ギボウシュの転)
(1)⇒ぎぼし。
(2)〔植〕ユリ科の一属。多年草で、日本・中国・朝鮮半島に約30種分布。葉は葉柄長く、長楕円形。夏・秋、長い花茎に漏斗状の花を総状につける。花冠は6裂し、色は白・紫・淡紫など。若葉は食用になる。スジギボウシ・オオバギボウシ・コバノギボウシなどが普通。トクダマ・タマノカンザシなどは観賞用に栽培。ぎぼし。(季)夏
吐前王子跡
力侍神社で休憩した後、次の吐前王子を目指す。
少し歩いた所で国道24号線突き当たる。
続きの道が反対側に見えているが国道に分断されているので少し離れた横断歩道を渡り進んで行く。
石の道標がある角を曲がり、煉瓦塀の脇を抜けると紀ノ川の土手に出てきた。
紀ノ川が見えた瞬間、歩いてここまでやって来たんだなという実感が湧いてきた。
流石は一級河川、長い川辺橋を歩いて渡ると結構時間が掛かる。
昔の人はこの辺りを渡し船で行き来していたらしい。
布施屋の渡し場
ここから北へ三〇〇メートルほど小道を行くと、昔の渡し船の発着場があった。
古くは、熊野詣の人々は、紀ノ川の対岸から吐前に船で渡っていたが、やがて紀ノ川の流路の変化により布施屋に渡るようになり、渡し場が設けられた。昭和三十年半ばまでは対岸の川辺へ渡る交通の要所となっていた。
平成十年三月
和佐歴史研究会
和歌山市教育委員会
JR和歌山線の吐前踏切を渡り本日最後の王子社に向かう。
吐前王子跡
この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。頼資の承元四年(1210)の御幸随行の日記は「修明門院熊野御幸紀」と呼ばれます。それによると、承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄、水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思われます。吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。江戸時代には、この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます。
吐前王子跡から吐前自治会館前を通ってJR和歌山線布施屋駅に向かう。
結局、今日は道すがら食堂も無く食事に有り付けなかった。
これからは水筒と弁当を持参するべきだろう。
そういえば、トレッキングシューズも買わなければならない。
布施屋駅
和歌山線に乗るのは何年ぶりだろう。
ほどなくローカル電車が到着した。
和歌山駅で水了軒の花咲弁当を買ってホームのベンチで待望の食事に有り付けた。