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熊野古道遙かなる道
平成18年7月11日(火曜日)
熊野一の鳥居跡
JR日根野駅から電車に乗り和歌山駅で一旦改札から出て駅ビルで買い物をする。
前回途中から日照りがきつくなり暑さ対策が必要と痛感したので帽子を購入した。
ホームで駅弁を買ってきのくに線御坊行き電車に乗り込む。
発車まで時間があるので早速駅弁を開けて少しは早い目の昼食とする。
今では稀少となった113系電車に揺られ海南駅へと向かう。
二日前に来たばかりの海南駅に降り立ち、古い町並みを抜けて熊野一の鳥居跡を目指す。
熊野一の鳥居跡
ここは、熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたります。
『紀伊続風土記』に熊野一の鳥居があったこと、地名「鳥居」の由来もこれによると記されています。
鳥居のすぐそばに「祓戸王子(鳥居王子)」があり、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へと入って行ったのでした。この鳥居は、天文十八年(一五四九)には損失されたと前記文献に記されています。また現在、藤白神社の二の鳥居の傍らに「熊野一の鳥居」と刻まれた石碑も残っています。
祓戸王子跡
熊野一の鳥居跡からは熊野古道を進む。
民家の軒には熊野古道の提灯が吊られ古道らしい風情が感じられる。
道標を目印に左に折れるとその先に祓戸王子跡が見えて来る。
和歌山県指定文化財
史跡 祓戸王子跡
昭和三十三年四月指定
祓戸王子は熊野九十九王子のひとつで熊野詣での人びとの遙拝所、または休憩所でした。
この場所より、北へ一一〇メートルのさきに「祓戸神社々趾」という石碑が建っているところが王子跡になります。
祓戸王子は明治四十二年(一九〇九年)藤白神社に合祀されました。
しかし、むかしの祓戸王子は、日隈地蔵から熊野古道おw西に進み、すぐ左へ曲がるあたり山のふもとにあったと、地元のひとたちは伝えています。
和歌山県教育委員会
海南市教育委員会
和歌山県指定文化財
史跡 祓戸王子跡
昭和三十三年四月一日指定
ここ祓戸王子跡は、熊野本宮大社の手前にも「祓戸王子」があるように、熊野への入口として垢離をとって、心と体を清める場所でした。
当時は、藤白神社の大楠、藤白坂の筆捨松や藤白峠が一望できるひとつのポイントであったといわれています。
祓戸王子の下の三叉路は、熊野古道と近世の熊野街道の交差するところで、熊野一の鳥居跡を記す石碑があり、そこから「祓戸王子」への登り道があったといわれています。
平成八年十二月一日
和歌山県教育委員会
海南市教育委員会
藤代墨と墨屋谷
この谷は墨屋谷と呼ばれ、古代の藤代墨が製造された場所といわれています。
十三世紀中頃にまとめられた『古今著聞集』には、この藤代(藤白)の地で、熊野詣途中の後白河上皇に松煙(墨)が献上されたという話がみられます。
また、幡川の禅林寺に残る「三上庄大野郷御年貢帳」(一四〇〇年)に「墨ノ免」という記載があり、藤代墨との関係が注目されています。
昭和五十九年三月
海南市教育委員会
小栗街道
雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道と呼んでいます。
小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、熊野を目ざしてこの道を通ったためです。
判官は熊野本宮に参詣し湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。
判官は、後に、畿内五か国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。
この話は、説教節や和讃、浄瑠璃などに脚色され伝えられています。
平成八年十二月一日
海南市教育委員会
鈴木屋敷
鈴木屋敷
ここは、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。
平安末期ごろ、上皇や法皇の熊野参詣がさかんとなり、熊野の鈴木氏が、この地に移り住んで、熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰の普及につとめていました。
なかでも、鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で、源義経の家来として衣川館で戦死を遂げたと伝えられています。
また、重家・重清らが幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野往還には必ずこの屋敷に滞在し、山野に遊んだとも伝えられています。
平成十六年十月
海南市教育委員会
曲水泉
ここ、旧鈴木邸庭園は、「曲水泉」といわれるもので、今も残る貴重な庭園の一つに数えられています。
「曲水泉」というのは、平安時代の頃、曲がりくねった水路に沿って並べた庭石に、人々が腰をかけ、上流から流れた杯が自分のところにくるまでに詩歌を作り、杯をとりあげて酒を飲み、次へ流す遊びに使われた庭です。
造園の年代時期ははっきりしませんが、室町時代ではないかと考えられています。
海南市教育委員会
義経弓掛松
藤白王子跡
鈴木屋敷から少し進むと、熊野九十九王子の中でも特に格式の高い五躰王子の一つ藤白神社に出る。
境内を散策していると神主さんが声を掛けてくれた。
「暑いのに大変ですね。冷たいお水でもどうぞ。」
水筒に水を頂いた。
本堂に祀られている木造熊野三所権現本地仏坐像は、熊野路で唯一完全な形で残されている物らしい。
社務所で旅の安全を祈願してお守りを購入する。
海南市指定文化財
天然記念物 藤白神社のクスノキ群
平成十年七月指定
藤白神社の境内には、三か所に分かれてクスノキの大木が合計五本あります。遠くから眺めるとクスノキの森のようです。
中でも、本殿の前のクスノキは幹周り十メートルを超えるもので、幹の北側は、腐朽して空洞となっていますが、もっとも太いものです。
次は子守楠神社の南側のクスノキで、幹周りが七メートルほどあり、樹勢も旺盛で、生気に満ちた大木です。また、子守楠神社の背後にある三本の神木のクスノキは幹周り五から六メートルあり、樹勢も良く立派な大木です。言い伝えによればここには、神木を全部合わせたよりも大きなクスノキがありましたが、当時、付近の農村に飢饉がうち続いて困っていたので、氏子が相談してこのクスノキを切り、救済資金に充てました。その切り株から四本が発芽し、そのうちの三本が現存しているのだそうです。これらの言い伝えを物語るように、昭和の初めには、確かに腐朽した切り株があったそうです。
今も、この三本のクスノキは、子守の楠神さんとして親しまれ、信仰の対象となっています。
昭和の中頃まで、この地方では、子供の名前に、楠神さんにあやかり、「楠」という字を入れて名前をつけることが多かったそうです。博物学者として世界的に有名な南方熊楠もその一人です。
平成十二年二月一日
海南市教育委員会
和歌山県指定文化財
史跡 藤白王子跡
指定年月日 昭和三十三年四月一日
この藤白王子社(現藤白神社)は、平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一として特に格式の高かった神社である。
中世の熊野御幸の際には当社を御宿泊とせられ、法楽のために御歌会、相撲会等が催された。
特に藤原定家の「熊野御幸記」に記載されている建仁元年(一二〇一年)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で、その時の「熊野懐紙」御宸輪は国宝となっている。
深山紅葉
うばたまの よろのにしきを たつたひめ
たれみあまぎと 一人そめけむ
白藤の下に歌碑があり、傍らに「御歌塚」がある。
また、神社の「本殿」「藤白の獅子舞」「本堂の熊野三所権現本地仏三躯」「藤代王子」の本地仏も和歌山県指定文化財である。
平成十七年五月三十一日
和歌山県教育委員会
海南市教育委員会
藤白神社
有間皇子史跡
紫川
紫川は、その名の由来をたずねると、上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われています。
また、万葉集に『むらさきの名高の浦・・・』と詠んだ歌があります。
『紫の名高の浦の愛子地
袖のみ触りて寝ずかなりなむ』
この他にも二首あります。
これらの歌の「名高の浦」に「むらさきの」という枕詞がつけられているのは、紫は「貴い」色として名高いので「名高」にかかる枕詞になったのでしょうか。
名高にも紫川と呼ばれる川があったことは、名高浦へ注ぐ川を紫川と呼んだものでしょう。
平成八年十二月一日
海南市教育委員会
有間皇子史跡
有間皇子は、孝徳天皇の皇子です。
斉明四年(六五八)十一月に、謀反の疑いで捕らえられ、牟婁の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇のもとへ護送されました。
中大兄皇子の尋問を受け、その帰り道に、この藤白坂で絞殺されました。皇子は十九歳の若さであったと伝えられています。
皇子が護送途中、自らの運命を悲しんで詠んだ歌が二首あり、そのうちの一首が、ここの歌碑に佐々木信綱博士の筆で刻まれています。
『家にあれば笥に盛る飯を
草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』
平成八年十二月一日
海南市教育委員会
藤白坂の丁石地蔵
藤白坂の丁石地蔵
全長上人は、海南市名高の専念寺第十四世の住職で、元禄年中(一六八八~一七〇四)専念寺に入り、延享四年(一七四四)に入寂した学徳すぐれた高僧でした。全長上人は、藤白坂の距離を明確にするとともに、憩いの場所とし道中の安全を祈願するためにと、十七体の地蔵を一丁ごとに安置されました。
当時、藤白坂にはかご屋がいて、足腰の弱い旅人はかごを利用して峠越えをしたものです。これによって、旅人は楽しい道中ができ、かご屋も十分な賃金を得ることができたと言われてます。
いつ頃からか藤白坂のかご屋もなくなり、以来二百五十年余りの長い間に、丁石地蔵は谷に落ちたり地に埋もれたりして消え、昭和五十六年に現存するものはわずかに四体に過ぎませんでした。その後、新しい地蔵を加えて、十七体が復元されました。
この「一丁地蔵」は当時(享保の初め頃)のものであり、「丁石」としては全国的にも珍しく、貴重な存在です。
平成八年十二月一日
海南市教育委員会
藤白坂
十七体ある地蔵を目印に藤代坂を登っていく。
眼下に関西電力海南発電所が見える。
七丁目は簡素な祠で地蔵様を保護している。
アスファルトの道路ともおさらばで、古道らしい山道が続く。
熊野古道
熊野古道は、文字どおり熊野三山へ通ずる信仰の道として大きな意義をもっていました。
今から約九百年前の院生時代から、とみに上皇・法皇をはじめ貴族の人々の信仰が高まり、中世になると、それが武士や庶民の階層にまで広まっていきました。
蟻の熊野詣と形容された参詣者の列ができた紀伊路のコースは、藤原定家が建仁元年(一二〇一)に著した「熊野道之間愚記」で克明に伝えられています。
遙拝所として道中に設けられていた王子社も、その跡地が現存したり、伝えられたりしており、市内では、松坂王子社、松代王子社、菩提房王子社、祓戸王子社、藤代王子社(藤白神社)の五ヶ所が確認されています。
特に藤代王子は、熊野五体王子の一つであり、定家の記録によっても藤代の地が院の一行の宿泊所となっていたことがうかがわれます。御歌会や相撲の奉納も行われたりしました。
熊野古道は、別名小栗街道とも呼ばれ、小栗判官腰掛石や四ツ石などの史跡も残されています。
熊野古道は、このあたりからさらに急峻な坂道(藤代坂)となり、坂を登り切った所には塔下王子(地蔵峯寺)があります。
昭和六十一年三月
海南市教育委員会
筆捨松
藤代伝承遺蹟
筆捨松由来記
「投げ松」
第三十四代舒明天皇(西暦六三五)は、熊野へ行幸の途次藤白峠で王法の隆昌を祈念し小松にしるしをつけ谷底へ投げられた。帰路小松が根づいていたので吉兆であると喜ばれた。以来「投げ松」と呼ばれていた。
「筆捨松」
平安前期の仁和年間(西暦八八五~八八八)の頃絵師巨勢金岡は、熊野詣での途次藤白坂で童子と出会い競画することとなり金岡は松に鶯を描いた。童子は松に烏を描いた。次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を手を打って追うと両方とも飛んでいった。こんどは童子が烏を呼ぶと何処からか飛んできて絵の中におさまった。しかし金岡の鶯は遂に帰らなかった。「無念!」と筆を投げ捨てた。
筆は「投げ松」の所へ落ちた。以来「筆捨松」と呼ばれてきた。童子は熊野権現の化身であったといわれている。
「郷土史より」
平成十五年十一月三日
寄贈 海南ロータリークラブ
硯石
遺蹟「硯石」
”蘇る徳川四〇〇年の遺蹟”
熊野古道 伝承遺蹟 「筆捨松」にちなみ紀州徳川家初代藩主 頼宣公の命により後に自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられる。
『名高浦四囲廻見』より
かつては、筆捨松の大木の根元に立っていたこの硯石が昭和五十八年の水害で土砂と共に押し流されうつぶせにうずもれていた。このたびこの場所で確認の上、掘り起こしその姿を復元する。
(重さ約十屯)
平成十五年十一月三日
熊野古道藤白坂顕彰会
石造宝篋印塔
しもつ・野のみち見て歩き
下津町の熊野古道
石造宝篋印塔
このあたりはもともと地蔵峯寺の境内にあったところで、同寺の施設の一つとしてこの石造宝篋印塔が建てられたものと思われる。造建年代ははっきりしないが恐らく地蔵峯寺の石造地蔵菩薩像と同年代の15世紀前半頃と推定され、高さ12.5尺(3.788m)という完数値(25尺の半分)になっている。
宝篋印塔というのは、宝篋印陀羅尼経というお経を納めることによりもろもろの功徳を積むことができると考えられた。この塔は緑色と赤味がかった二種の緑泥片岩を交互に積み上げている。県下四大宝篋印塔の一つに数えられ那智の塔にも劣らない。昭和44年県指定の文化財となっている。
藤代塔下王子
藤白坂の丁石地蔵を十八丁まで下ると左手に石造宝篋印塔が見える。
集落の入口に地蔵峰寺があり、ここに塔下王子が祀られている。
地蔵峰寺に併設された藤白塔下王子跡休憩所でお茶を飲み休憩してから次の橘本王子を目指す。
細い下り坂を進むと、樹木の枝に『拍手ポイント』の札を見つけた。
「0.6秒で音が返ってきます」
試しに手をたたいてみた。
周りに誰もいないから良いが都会だと明らかに「変な奴」だ。
少し進むと今度は『歌声ポイント』がある。
「コンサートホールのように声がひびきます」
山彦で思い出した。
万葉集にこんな句があった。
「やまびこの相響(とよ)むまで妻恋ひに」
橘本王子
ミカン畑の農道を下ると地蔵尊が見えて来る。
地蔵尊の前を右手に曲がると阿弥陀寺があり、境内に橘本王子が祀られていた。
古道に戻り県道と合流する辺りに自販機があったので休憩する。
午後2時を過ぎ、曇ってはいるが気温は30℃を超えているだろう。
県道の先に木造の橋が架かっていた。
橘本土橋を渡り集落の間を進む。
しもつ・野のみち見て歩き
下津町の熊野古道
橘本土橋
峠の道を下りきったところに加茂川がながれていて、ここに土橋がかかっていた。紀伊国名所図絵にはこの土橋付近には家が立ち並び、駕籠で旅する人、すげ笠を持っている人、親子づれ、武士などいろんな人が通っている。北側にはお地蔵さん、南側には三界萬霊碑(寛政5年1793)があり交通の要衝であった。ここから一壺王子にかけて馬を用立てする伝馬所や旅籠が軒を連ねていたものと思われる。
また、熊野詣での帰途藤白坂はあまりにも険しいのでここから加茂川に沿って下り、舟の津(いまの塩津)から船で和歌浦に到る通路のことが天仁2年(1109)の中御門右大臣宗忠の旅行日記「中右記」に記されている。
所坂王子
所坂王子
この王子社名を、藤原定家は「トコロ坂」、藤原頼資は「薢坂」と日記に記しています。薢は植物の野老のことです。この付近に野老が多く自生していたことから、王子の名が付けられたようです。『紀伊続風土記』では、「所」の字を当て、所坂王子社と呼んでいます。この王子社は、明治時代に塔下王子社・橘本王子社を合祀し、橘本王子神社(現、橘本神社)となりました。そして、橘本王子の由来である田道間守を主神として祀っています。神社合祀で廃絶していく王子社の中で、神社になった一例がこの所坂王子です。田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰り、この地に日本で最初に植えたと伝えられています。その実が、日本で最初のみかんとなり、菓子となったことから、橘本神社は、みかんとお菓子の神さまとして、全国のみかん・菓子業者から崇められています。
指定文化財
所坂王子跡(県・史跡 昭和三十三年)
しもつ・野のみち見て歩き
下津町の熊野古道
所坂王子跡
橘本から市坪へかかる坂を「ところ坂」という。昔、このあたりに「草蘇」(ところ)が自生していたので、この名がある。
現在は明治40年(1907)神社合祀によって塔下王子社、橘本王子社、所坂王子社をあわせて橘本神社として合祀している。御祭神の田道間守命(たぢまもりのみこと)は、第11代・垂仁天皇の御世に常世の国に渡り、「橘」(たちばな・現在のミカンの原種)を持ち帰り、天皇に献上した。その橘がこの地に日本で最初に植えられたと伝えられている。その昔、橘(果物)の実で最初にお菓子がつくられたといわれていることから、みかんと菓子の神様として、全国のみかん・菓子商人から崇敬されている。
4月3日 春祭・菓子祭・全国銘菓奉献祭
10月10日 例大祭・みかん祭
下津町教育委員会
一壺王子
所坂王子から一壺王子に向かう途中で河原にカモが数羽いるのを見つけた。
ちょこまかと動き回る姿が愛らしい。
小学校の近くで児童に挨拶された。
熊野詣での旅人に挨拶するように教育されているのだろうか。
河原のカモと小学生、心和む出会いだった。
一壺王子
藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行した時の日記に「一壺王子」、藤原頼資が修明門院の参詣に随行した日記に「一坪王子」とみえるのが、この王子社です。また、頼資が後鳥羽上皇と修明門院の両院御幸に随行した、建保五年(一二一七)の日記によれば、十月四日、この「一壺」に小屋形が作られ、両院は昼食をとっています。この王子社は、江戸時代には、市坪(一坪)王子、山路王子社あるいは沓掛王子社とも呼ばれています。ここから、蕪坂峠に向かう急坂となるため、山路・沓掛などとも呼ばれたのでしょう。また、江戸時代には、この王子社は市坪・大窪・沓掛三か村の産土神でした。そのため明治時代以降も神社として残り、沓掛村の里神八王子社等を合祀しています。現在は山路王子神社となっていますが、かつては安養寺という別当寺があり、鐘楼がその名残をとどめています。毎年十月十日の秋祭りに奉納される相撲は、「泣き相撲」ともいわれ、小児の健康を願うもので、県の文化財に指定されています。
和歌山県指定文化財
史跡 (一の壺王子社)
指定年月日 昭和三十三年四月一日
熊野九十九王子社の一つであって社歴が古く建仁元年(一二〇一年)の御幸記に記載されている一壺王子である。
熊野道中記によれば「一ノ坪村一坪王子トモ沓掛ノ中道ノ右」とあって沓掛王子とも稱したのである
昭和四十六年三月二十一日
和歌山県教育委員会
下津町教育委員会
山路王子神社
しもつ・野のみち見て歩き
下津町の熊野古道
一壺王子跡
「一坪王子」とも「沓掛王子」ともいわれ、現在は市坪、沓掛の氏神で山路王子神社と称する。紀伊続風土記には拝殿、玉垣、鳥居、鐘楼などがあり、瑠璃光山安養寺という神宮寺があった。
秋の大祭(10月10日)には県指定の無形文化財の獅子舞(獅子幕内7人 鬼2人 笛5人 太鼓1人)があり、続いてこれも県指定の奉納花相撲が催される。これは村内外の幼児が赤いふんどしを締めて各々行事役の氏子総代に抱かれて土俵の上で一勝一敗になるように土俵の土をつけてもらい子どもの健康を祈願する。これは一般に「泣き相撲」として親しまれている。また子どもによる三人抜き五人抜きも行われ終日祭りで賑わう。
下津町教育委員会
沓掛の松
一壺王子から拝ノ峠に掛けて険しい上り坂が続く。
藤白坂は未舗装路だったので足への負担が少なかったが、こちらは舗装路なので足が疲れてきた。
沓掛の松
紀伊続風土記に「沓掛の名は、おおよそ山の麓にある名なり。平地には沓を用い、坂道にはわらじを用う。よって沓を掛け、用いざるにより、沓掛の名となる。地蔵堂のかたわらに、沓掛の松あり」と記されています。
つまり、この地蔵堂から拝の峠までの険しい坂道を登るためにここで沓を脱いでわらじに履きかえ、脱いだ沓をこの松に掛けて登って行ったのでした。
今の松は三代目にあたります。
弘法井戸
昔、お大師様がこの地をお通りになりました。険しい坂道を登ってきたため、のどが渇いたので、とある家で水をいっぱい所望されました。おばあさんが出て来て「しばらくお待ち下さい」といって茶わんを片手に坂道を下りて行きました。ひと時がたち、ふた時が過ぎて戻って来たおばあさんが、茶わん一杯の水をさしあげました。
村は山上近くにあるためずいぶん水の苦労わしておりました。そんな村人の難儀を見かねたお大師様は、杖でトントンとつついて「ここを掘るとよい」とお示しになりました。
地蔵堂はほとんど山の背に近いため、水なんぞ出そうもないのに、冷水が湧き出て枯れることもないとおわれ不思議がられています。