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熊野古道遙かなる道


 平成18年7月9日(日曜日)

川端王子跡


 前回、16km以上の道のりをスニーカーで歩き、「これは駄目だ。」と悟った私は、奮発してトレッキングシューズを購入した。
これで苦痛から解放されるのは間違いない。



 午前10時、和歌山駅で「さんま寿司」と「小鯛雀寿し」を買って食料を武装し、和歌山線の電車に乗り込む。



 六日ぶりに布施屋駅に降り立ち川端王子跡を目指す。
駅から5分ほど歩いたY字路の間に川端王子があった。



川端王子跡
 後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家お藤原頼資は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として、御幸の一行と別れ、日前宮に参拝しています。その後、両人は和佐、平緒王子社に参らずに、奈くち(菜口)王子社に参拝するのですが、川端王子は中世の参詣記には登場しません。したがって、中世には、この王子社は無かったものと考えられます。しかし、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそうです。一社は坂本(和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。この王子社が川端王子と呼ばれるようになったようです。明治時代に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。

 川端王子跡を右に進み和歌山線の踏切を渡って小栗橋へと向かう。

小栗橋
 熊野古道は、別名小栗街道とも呼ばれる。これは、小栗判官と照手姫がこの道を通って、湯の峰温泉まで湯治に出掛けたという伝説に由来するものである。昔は、石造りの橋であったこの橋も、小栗街道にちなんで、小栗橋と呼ばれている。

井ノ口禊所
 上皇が熊野に参詣するいわゆる熊野御幸は、延喜七(九○七)年の宇多上皇から弘安四(一二八一)年の亀山上皇まで行われていた。
 古い歴史をもつ日前・国懸神宮へは、奉幣使が派遣された。その奉幣使が禊を行ったのがここから約三百五十メートル西の辺りである。

旧川端王子社推定地
 江戸時代に編さんされた「紀伊続風土記」には、旧川端王子社は現王子社跡の西七町(約七百メートル)の小栗街道沿いに位置していたと記されている。この周辺に旧川端王子社が存在していたことも推定される。

 平成十年三月

  和佐歴史研究会
  和歌山市教育委員会


 井ノ口集落の辺りには、船で往来できそうな川があり、古い町並みが残されている。



 橋が架かっているので実用は無理なようだが、建物の間には船を出し入れできそうな部分が見られる。




旧中筋住宅
 
 和佐王子に向かう途中に旧中筋住宅があるが、残念ながら修復中で建物全体がシートで覆われ見ることが出来なかった。

重要文化財 旧中筋家住宅
 主屋・表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門  六棟
  昭和四十九年二月五日 国指定
 中筋家は薩摩国出身の文貞坊という人物が天正十三(一五八五)年に豊臣秀吉による根来寺の焼打ちを逃れてこの地に移住したことが初めと伝えられる。江戸時代には和佐組(和佐地区の旧村々の集合体)の大庄屋(藩の農村支配の末端に位置する豪農)であり、名字帯刀を許されていた。
 屋敷地は南北五十六メートル、東西三十八メートル(約二一〇〇平米)あり、この広い敷地の南側東寄りに表門(長屋門)、中央東寄りに主屋があり、北西部に長屋蔵と土蔵が建ちならんでいる。
 表門は桁行十五間余りで、中央二間を扉口構えとし、東に土間と居宅三室、西に物置三室がある。
主屋は正面に式台があり、大庄屋の家宅としての格式をみせている。式台を上がると取次の間があり、次の間、座敷と続き、これらが接客のための間取りとなっている。建物の向かって左側は、土間とそれに続く台所・居間となっており、これらが日常の居住部分である。居間の奥には二十畳敷の大広間があり、床・欄・書院を設けている。居間の上には三階造りの見晴らし部屋があり、外部から見ても特徴的な構えを示している。
 長屋蔵は二階建で、桁行は約十五間、南端を通用路とし、その他は土蔵造りで内部は間仕切をし、六個所に入口を設けている。北蔵は屋敷の北西隅にあり、入口二個所を設けている。内蔵は主屋大広間の西側にあり、二階建土蔵である。御成門は、屋敷の北側につくられた一間薬医門である。
主屋が建てられた年代は、江戸時代末期(一九世紀中葉)と考えられる。このことは、主屋大広間床脇の小襖に野際白雪斎(幕末の紀州藩絵師・一八一九〜一八七一)の描いた襖絵があることからも推定される。
 旧中筋家住宅は建立年代は新しいものであるが、建築的に優れ、大庄屋の屋敷構えを完存しており、また、江戸時代の豪農の豊かな財力と当時与えられた権威を示す歴史資料としても貴重な文化財である。
   平成五年十一月一日
     和歌山県教育委員会
     和歌山市教育委員会


和佐王子跡

 旧中筋住宅をパスし県道9号岩出海南線に平行する旧道をしばらく歩くと県道と交差する角に出る。
その角の県道沿いに和佐王子公園があり、その公園内に王子社跡があった。
公園の東側に高積山(標高240M)があり、高積山から城ヶ峰に連なる連山を和佐山と呼び、頂上部には山城が築かれていた。『太平記』には南北朝時代に和佐山城や龍門山城を舞台にした戦の様子が描かれている。
和佐山城には北朝方の畠山義深が布陣したとされている。



和佐王子跡
 後鳥羽上皇や修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、吐前王子から日前宮に就いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)王子社には参拝していません。しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社に参拝したものと思われます。江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。紀州藩主徳川頼宣は、寛文年間(一六六一〜七二)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四字を刻んだ碑を建てています。『紀伊続風土記』には、川端王子を和佐王子と称し、この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。この王子社は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。


和佐大八郎の墓

 和佐王子の先を少し上がった所に和佐大八郎範遠の墓がある。

和佐大八郎の墓
 和佐大八郎範遠は、紀州藩士で竹林派の弓道の達人であった。寛文三年(一六六三)和歌山市祢宜で生まれ幼少のころから弓を好み、その技大いに上達し、当時先人が競った大矢数に挑戦すべく日夜射芸に励んだ。
 貞享三年(一六八六)四月二十七日二十四歳の時、衆望を担って、いよいよ京都三十三間堂の大矢数に臨んだ。大矢数すなわち堂射とは京都蓮華王院三十三間堂においてこの堂の廊下の長さ一二一・五メートル、廊下天井の高さ四・五メートルを直接に射通し一昼夜二十四時間射る、そのなかの通し矢(貫通)の記録を競うのである。この時大八郎は総矢数一三〇五三本、通し矢八一三三本を達成して日本一の名声をあげた。
 正徳三年(一七一三)三月二十四日田辺で病死した。行年五十一歳、遺骨は田辺市元町浄恩寺と和佐家累代墓所に葬った。主石正面に「到蓮院安誉休心居士霊位、正徳三己年三月廿四日」右側に「俗名和佐大八良大伴範遠」左側に「京射甲第名聞天下維時丙寅貞享猛夏念士」と刻す。
 和歌山市


矢田峠

 和佐大八郎の墓から和佐王子へ戻り、旧道を通って矢田峠を目指す。



禰宜集落の外れで地元の人に「こんにちは。」と声を掛けられた。
突然だったので少し遅れて私も挨拶する。
熊野参詣の旅人として認知して頂いたようだ。
これからは、こちらから挨拶するように心がけねばならない。



 階段を登ると県道と交差し、急な上り坂に差し掛かる。



峠を越えたところで休憩することにした。
和歌山駅で買った「さんま寿司」と「小鯛雀寿し」を開ける。



木陰で涼みながら食事をしていたらヤブ蚊に襲われた。
已むを得ず日向に出て汗をかきながら食事を続ける。




 平緒王子跡

 ミカン畑の間を下り竹林を抜けると県道9号線と交差する。



平尾の集落に入り平尾自治会館前に平緒王子があった。



平緒王子
 平尾王子とも書かれています。後鳥羽上皇や、修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資は、日前宮奉幣使として、日前宮に赴いたため、和佐王子社とこの王子社には参拝していません。定家は日前宮から奈久智王子に向かい、この王子社には先達が奉幣しています。僧実意の日記(『熊野詣日記』)、応永三十四年(一四二七)九月二十二日条によると、足利義満の側室・北野殿は、川辺で垢離を行って心身を清め、和佐峠で休息したのち、山東(和歌山市)に泊まっています。
 この王子社は、天正十三年(一五八五)の羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれ、その後再建されて、「平緒王子社」と呼ばれていましたが、明治時代に都麻津比売神社に合祀されました。


 伊太祁曽神社

 小栗橋を渡り、和歌山電鉄(旧南海電鉄貴志川線)の踏切を越える。
貴志川線は廃線の危機を免れ4月に和歌山電鉄として再建された。
「いちご電車」を走らせて集客に努力している。
 六地蔵の辻を左に曲がったところで地元のおじさんに声を掛けられた。



「何処から来たんだ。」
「大阪からです。」
「熊野古道を歩いているのか。」
「はい。」
「車で回ってる人は多いが歩いて回っている人は少ないよ。」
「仕事があるので夕方には電車に乗って帰りますが。」
「とにかく、歩いて熊野まで行くのは大変な事だ。頑張って。」
ペットボトルのお茶を御馳走して頂いた。
 灯籠の間を通り参道を進むと紀伊國一之宮の伊太祁曽神社が見えてきた。



紀伊國一之宮
伊太祁曽神社のご由緒
ご祭神
大屋津比賣命(妹神)
五十猛命(須佐之男命の御子)
都麻津比賣命(妹神)
 五十猛命は木の神様であり、國土緑化の神様でもあります。紀州木の國の祖神として二柱の妹神と共に全國の山々に木を植え青山とされたご神徳は高く、命を祀る全國多数の神社の総社として、紀州一之宮として農林殖産特に木材業・山林業など木に関係する生業の方々の尊崇するところであります。
また、父神(須佐之男命)と共に浮宝(船)を造り、漁の業を住民に教えたことから漁業関係者の信仰殊に篤く航海交通の安全を司る神様として崇められています。
大國主命が大屋毘古命(五十猛の別名)によって度重なる厄難を免れたことが古事記に記されており、このことから「厄除」「いのち神」としての信仰が今に続いています。
主な祭典日
卯杖祭(一月十五日)卯杖・小豆粥・粥占神事
木祭(四月第一日曜日)木霊蔵謝祭・植木市
芳輪祭(七月三十・三十一日)わくぐり・夏越の大祓
例祭(十月十五日)新穀感謝の秋祭・神興渡御


 奈久智王子跡

 伊太祁曽神社を出て六地蔵まで戻り熊野古道を進む。
道沿いに奈久智王子の案内板があり、周りを見渡してみたが王子跡が見つからない。
石垣の辺りかと思い探してみたが、どうやら間違えているようだ。
私有地に不法侵入している事がわかり慌てて退散する。
結局、細い道の先のミカン畑の右手に王子跡を見つけた。



熊野古道
奈久智王子社跡
 『御幸紀』(建仁元年(一二〇一)の後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には、「遠路山々の道を凌いでなくちの王子に参る」と記されている。
 奈久智という呼び名の由来については諸説あるが、名草郡(現在の和歌山市東部と海南市の一部の古称)の各所に通じる道がこの付近に集中しており、そのために「名草の口」の意味で「名口」と呼ばれたともいわれている。
 この説明板の前の道が熊野参詣道であるが、王子社はここから約20メートル西側の山際にある。奈久智王子は、和歌山市内にある最後の王子社で、次は海南市且来にある「松坂王子社」である。
平成五年八月二日
和歌山市教育委員会


 四つ石


 奈久智王子から松坂王子へ向かう途中、大池の傍でY字に分岐する所を間違えて右に進んでしまい、あらぬ方向に延々と歩いてしまった。
 早く気づけば良かったのだが1時間ほど何処を歩いているのかも分からず徘徊してしまった。



 結局、通って来た道を逆戻りしてみると、Y字路の所に案内板が掲げられていた。



熊野古道(四つ石)
 かつて多田にあった三上院千光寺の礎石を集めて地蔵尊を祀ったのが、この四つ石地蔵です。
 このすぐ前を通る熊野古道は、古代・中世に牟婁の湯行幸や熊野三山参詣の道として開けました。平安時代の末には、後白河上皇らによる熊野参詣がさかんにおこなわれ、「蟻の熊野詣」と呼ばれる程のにぎわいを見せました。
 伝説、浄瑠璃で有名な小栗判官と照手姫の話に由来して、別名小栗街道とも呼ばれます。
昭和五十九年三月
海南市教育委員会


 石畳道

 四つ石地蔵から真っ直ぐ進み、民家の突き当たりを右に曲がると広い県道に出る。
残念ながら道路改良工事の為に松坂王子は退去されていた。



 くも池の手前で県道から左の道に下ると、池の下から県道に掛けて石畳道が残っていた。

熊野古道
 熊野古道は、熊野へ続く信仰の道です。平安の昔から、熊野三山(熊野本宮・熊野新宮・熊野那智)へ参拝するためにつくられた古い山道で、「熊野古道」としてその面影を今に残し、当時、休憩や宿泊などに使われた神社・王子跡が今でも各所に見られます。
 昔は、熊野詣の人々でにぎわい「蟻の熊野詣」と言われるほどでした。
 この下を通っている石畳の道から、くも池を回ると、汐見峠に出て松代王子へと続きます。
平成八年十二月一日
海南市教育委員会



熊野古道石畳
 石畳のある熊野古道としてながく親しまれ、多くの人々の往来がありました。
 平成15年の県道秋月海南線改良工事により、東に約5m離れたこの場所に移設されました。


 汐見峠

 石畳道からくも池に沿って歩くと見覚えのある風景が現れた。
高校時代に通った教習所が池の上に見える。



なぜ田舎の教習所に通ったかというと、
送迎バスが高校の近くまで迎えに来た。
阪和道を走るので意外と時間が掛からなかった。
教習料が安かった。
腰の低い温厚な教官が揃っていた。
等々、理由は色々とあるが、とにかく不満のない穏やかな教習所であった。

 「ドライビングスクールかいなん」を過ぎると峠に差し掛かる。
峠を越した左手に「呼び上げ地蔵」がある。



汐見峠
 古の都人が、熊野への長い旅の途中で憧れの海を見たのは、且来から井田へ越えるこの峠でした。
 目の前に広がる海原を見たとき、その大きさと風景の美しさに歓声をあげ、いつまでも立ちつくしたことでしょう。その感動がそのまま「汐見峠」の由来になりました。
 また、安政二年(一八五五)の大地震のとき、大津波に逃げ場を失った人々が、汐見峠のお地蔵様の不思議な力に呼び上げられて、救われたと伝えられています。
 それ以来「呼び上げ地蔵」といわれ、信仰を集めてきました。
 地蔵様の台座には「志おみとうげ 大くり道」と刻まれています。
 大くり道というのは、小栗街道のことです。
   平成八年十二月一日
     海南市教育委員会


 松代王子


 汐見峠を下り日方川に沿って歩くと郷社春日神社の石柱があり、そこを左に進むと松代王子石碑と祠が見える。
松代王子の先には春日神社があり、天押帯日子命(第五代孝昭天皇の皇子)を祭神として祀られている。



「大塔宮御逗留旧址」(南朝・大塔宮遺跡)
 太平記に有名な大塔宮護良親王の熊野行きのでんせつがこの地に残っている。
 歴史に有名な「元弘の変」の一コマである。
 元弘元年(一二三一)笠置に続いて赤坂も落城し大塔宮様は熊野にむかわれた。布施屋より山東荘、熊野古道に従い海南の地に入られたのは同年十一月頃である。
 さて、このとき宮の警固の任に当たったのが、大野十番頭の面々であった。春日神社の祭礼を年番で務めていた大野十番頭は三上荘大野郷を統治するこの地の豪族であり、護良親王を一時春日神社の社殿に隠し申し上げた。故に、現在に至るまで相殿三扉のうち一つは空位となっている。
 その後、年が明けるまでこの地に逗留されたという伝承があり、大塔宮様を祀る社を「年越し神社」といい、かつて南参道の途中にこの社が存在した。
 親王は、大野十番頭達の忠勤を深く称せられ「春日大明神」の御名を自ら書き、その脇に受領名をも書き添えられ夫々、一幅づつ賜ったとある。
その「大野十番頭(春日十番頭)」の面々とは、
鳥居浦 三上美作守  鳥居浦 稲井因幡守
鳥居浦 田嶋丹後守  鳥居浦 坂本讃岐守
鳥居浦 石倉石見守  神田浦 尾崎尾張守
井田村 井口壱岐守  中村 宇野辺上野守(和泉守)
中村 中山出羽守  幡川村 藤田豊後守
 (紀伊続風土記)
 今、この南北朝ゆかりの地で十番頭末裔たちが集う祭りが年に一度六月に開かれている。


 菩提房王子跡

 日方川を渡ると右手に道標が見える。



 少し進むと野上電鉄の廃線跡(春日前駅付近)に出る。
旧野上電鉄は、日方駅から登山口駅まで(路線距離11.4km)を結ぶ鉄道路線だった。
日方駅は南海電気鉄道和歌山軌道線海南線に接続していた駅で、国鉄海南駅の200メートル先にあった。国鉄海南駅との接続は日方駅の次の連絡口駅で行われていた。
阪急や阪神などの旧型車輌が走り、「動く博物館」と呼ばれていた。



 国道を渡り蓮花寺を過ぎると菩提房王子跡が見える。



海南市指定文化財
史跡 菩提房王子跡
 昭和四十九年六月六日指定
 菩提房王子は、熊野九十九王子のひとつですが、王子というのは、熊野詣での人々の遙拝所または休憩所でした。
 『紀伊続風土記』には、「鳥居村界熊野古道に字ボダイといふあり、その廃跡ならむ」と記されていますが、早い時期にこの王子は失われたのでしょうか。現在は、「ボダイ」という字名はありません。
 なお、藤原定家の『熊野御幸紀』(建仁元年(一二〇一)十月八日の条)には「・・・次参松代王子、次参菩提房王子、次参祓戸王子、次入藤白宿」と記されています。
 平成八年十二月一日
  海南市教育委員会


 海南駅

 菩提房王子跡から熊野一の鳥居跡の横を通りJRを越えて海南駅へと向かう。
海南駅に来るのは24年ぶりだ。
当時は野上電鉄も健在で地上駅だったが、現在は野上電鉄は廃線となり駅舎も高架駅となっている。
帰りの切符を買う際に改めて「遠くまで来たのだな」と実感する。