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泉の森自転車店
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 バス停に戻り慶州市外バスターミナル行きが来るのを待つ。時間は4時半になろうとしているが日はまだまだ高い位置に有る。大阪と比べるとかなり日が長いのだろう。日没までたっぷり時間が有りそうだ。
 カーブを曲がってバスが姿を現した。前面に掲げられた方向幕の行き先を確認する。右側の乗車口から車内に入り料金を支払う。念のために市外バスターミナルに行くか運転手に聞いておいた。
 バスに揺られ車窓を眺めていると所々にガソリンスタンドらしき物が見受けられる。何処もそうであるが、皆一様に事務所の建物は屋根瓦の韓国式の建物で出来ている。古都慶州の景観を損ねない様に配慮しているのだろう。
 バスは慶州市内に入り、慶州駅前を左折する。ここで乗客の大半が下車した。残ったのは私と学生風の男の子とおばさんの3人だけとなった。そしてとうとう次の停留所で残りの2人も降りてしまい、私1人が取り残された。
 仏国寺を出て約30分で慶州市外バスターミナルに到着した。日没まではまだ2時間以上あるだろう。慶州市内に点在する観光名所を訪ねてみようと思う。
 とりあえずは町並み拝見、当てもなく適当に歩き始めた。バスターミナルから10分ほど歩いた路地の向こうに緑の綺麗な丘が見えて来た。何か不自然な神秘的な雰囲気を醸し出している。「こっちへ来なさい。」そう語り掛けている様にさえ思える。

 緑の丘は新羅時代の王一族の墳墓であった。
慶州路西里古墳群と呼ばれているらしい。
案内板が掲げられていたので訳してみた。



경주 노서리 고분군

이 곳 노서동 넓은 편지에는 크고 작은 고분니 10여기 있다.노동리의 봉황대고분과 더불어 그 규모에 있어서 쌍벽을 이루는 제130호 고분을 비롯하여 1921년 우연히 금관이 출토되어 세상사람들을 놀라게 한 금관총,1926년 스웨덴의 황태자 구수타프아돌프 6세가 발굴조사에 참여하여 금관이 출토된 서봉총 1946년 고구려 광개토대왕의 이름이 새겨진 창동 그릇이 발견되어 신라 고분에 대한 연대 추정에 도움을 준 호우총,그밖에 은령총,쌍상총,마총등이 있다.
이들 무덤 중 대채로 붕분이 큰 것은 돌무지 덧널무덤 이고,작은 돌방무덤과 구덤식 무덤 이다.1984년 신라고분 정비 보존사업의 일환으로 민가를 철거하고 지금의 모습으로 정비 하였다.


慶州 路西里 古墳群

ここ、路西洞地区には、大小の古墳が10余基ある。路東洞の鳳凰台古墳と合わせ、その規模において双璧を二分する130号古墳をはじめとして、1921年 に偶然金冠が出土して、世の人達を驚かせた金冠塚、1926年スウェーデンの皇太子クスタプアドルプ6世が発掘調査に参加して金冠が出土した瑞凰塚、 1946年高句麗カンゲト大王の名前が掘られた青銅器が発見されて、新羅古墳に対する年代推定の手掛かりとなった壺杆塚、その他に銀鈴塚、雙床塚、馬塚、 などがある。
これらの墳墓中の大部分が、大きな物は積石木槨墳で、小さな物は石室墳か竪穴式墳である。
1984年新羅古墳整備保存事業の一環で民家を撤去して、今の姿に整備した。

 道を渡った反対側は路東里古墳群と呼ばれ、韓国最大規模の古墳、鳳凰台がある。
路東里古墳群の案内板には以下記の様に書かれている。


경주 노동리 고분군
사적 제38호
소재지 경상복도 경주시 노동동 261
이 고분군은 월성을 중심으로 서에서 복동방향으로 분포한 많은 신라고분 중 서북편의 말단부에 위치해 있다.
고분들은 중앙에 나 있는 도로를 경계로 하여 노동리,노서리 고분군으로 나뉘어진다.
이 곳 노동리 고분군에는 고분 1기와 고분터 2기가 있다.남아있는 무덤은 밑둘레 250m,직경 82m,높이 22m
로 우리나라애서 가장큰 규모이며 봉황대 라고도 부른다.
남쪽에는 1924년에 발굴조사한 금령총 터와 식리총 터가 있는데 내부 구조는 모두 돌리지 덧널무덤 이다 .여기에서 금관과 도제 기마인울상을 비롯하여 많은 껴울거리가 출토 되었다.


慶州 路東里 古墳群
史跡 第38号
所在地 慶尚北道 慶州市 路東洞 261
この古墳群は月城を中心として、西から北東側に分布している多くの新羅古墳の中で西北側の端に位置している。古墳らは中央に在る道路を境界にして路東里、路西里の古墳群とに分かれている。
この路東里古墳群には古墳一基と古墳跡二基がある。現存する古墳は円周250m直径82m高さ22mの我が国で最も大きい規模であり、鳳凰台とも呼ばれている。
南側には1924年に発掘調査した金鈴塚の跡と飾履塚があるが内部の構造はみな積石木槨墳である。ここから金冠や陶製騎馬人物像をはじめ、多くの副葬品が出土された。